「ぶち」のドラム 平 賢之助が永眠した。
46年という短い人生だった。
彼等と初めて会ったのは5年位前だったか、横浜7th avenueだった。
ZieNAはリハが終わるとさっさと街に繰り出して一杯飲るのが習慣で、その日も美味いホルモンを肴にグイグイ酒を飲り、ライブの3分前に楽屋に戻ると、やたらと背の高い男と、上半身裸の刺青男が楽屋に居た。
チラっと一瞥をくれて、
「あ、帰って来た」と賢之助がニヤリと薄笑いを浮かべて言ったのを今でも覚えている。
多分何か感に触ったのか、珍しくオレ達は帰らずに「ぶち」の出番を楽屋にて聞いていたのだが、
「あいつら、やばいぜ」とKAZZが言って直ぐ様、客席に出張って行き「ぶち」を目の当たりにした。
理屈じゃない音がそこら中に響いていて、聞いた事も無いキテレツな歌詞に度肝を抜かれた。
耳にする世間のクソみたいな歌詞にうんざりしていた俺は「ぶち」の歌詞を聞いて、
「とんでもねぇ奴らが居たんだ」と呆然と聞いていた。
それから対バンの時は必ず「ぶち」のステージを観戦し、見る度、曲を知る度、虜になった。
ZieNAのライブの時も気がついたら「ぶち」のメンバーが必ず見てくれていた。
しかし、お互いに人見知りが酷く、ちゃんと口を聞くのに3年近くかかった。
「ぶち」のギター石井崇が酔っ払ってKAZZと2人で飲んだらしく、どうやら彼等もZieNAの音を高く評価していてくれていた事を知る。
ZieNAの友人に不幸があり、追悼ライブの時にひょっこりと石井君がZieNAを見に来てくれて、そして新宿のワイルドサイドTOKYOに一緒に出ようと誘ってくれた。
新宿ワイルドサイドは楽屋が大きくて、そこで賢之助と会うが、いつものように一瞥くれるだけで殆ど会話はしなかった。
ライブが終わり皆んなで打ち上げてる時もZieNAとは会話してなかった。
オーストラリアでライブしないか?と石井君から言われたが実現せずにいた時、ZieNAはその頃、毎年北海道にツアーに行っていたので、
「北海道一緒に行く?」と誘ったらそれが恒例となった。
人見知りの狂犬みたいな賢之助と初めてのツアーの時、飛行機で俺は隣の席に座った。
ギクシャクしていた人見知りが嘘のようにあっという間に打ち解けて最高に楽しいツアーになった。
「ぶち」のサポートでベースを何度か弾いた時も、スタジオで缶のウーロンハイを飲りながら楽しそうにドラムを叩く賢之助を見て、面白い男だなぁと思った。
人を寄せ付けず、しかし相手を一旦認めたら最高の笑顔で接してくれる男。
以前、サポートでライブを演った時ベースを足に落として骨折した時も、病院まで連れて行ってくれて一通り治療が終わった後飲み屋に入り、
「お前は本当に馬鹿だな、本当に馬鹿だな、いや、本当に馬鹿だな」と笑いながら酒を酌み交わした事が昨日のように思い出される。
もっとドラムを叩きたかっただろうし、好きな女ともっとずっと一緒に居たかっただろう。
好きなタバコと酒と美味い肴に馬鹿話をもっと一緒にしたかった。
不器用で繊細で類い稀な才能を持つクリエーターだった。
映画「男はつらいよ」の車 寅次郎みたいな人柄だったな。
お疲れ賢ちゃん、まだ俺たちはこの世で音を出し続けるよ。
「ねじ曲がんなよ!」ありがたい賢ちゃんの言葉を刻んで。
ご冥福を心から祈ります。